死と超越

所見・偏見・エトセトラ

(*^_^*)

ここ数ヶ月で世界認識の解像度が向上しているのを感じるが、向上速度に思考・思想の展開が追いついていないため苦しい。この苦しさを緩和するためには、たとえ各論が矛盾していても一旦言語化する必要がある。

 


 

日本各地を飛び回り、たくさんの人に会った(これを私は「巡礼」と呼ぶことにした)。これは私にとっては驚異的なことだ。23年伊達に生きてきた訳ではないという自信が湧かないでもない。一年ちょっと前まで他人に会うと一日は確実に寝込んでいたのだが、それもなくなった。これも成長である。好ましく思う。だが、それと同時に外界に対する好ましさが漸次的に減少しており、複雑な気分だ。
例えば興味本位で入ったアダルトショップで売られている商品、スーパーマーケットで売られているパッケージ以外差異のほとんど見られない商品。これらの毒々しさに辟易し、めまいすら覚えた。
私がウブなだけなのではとも思ったが、別に以前は何とも思わなかったわけで、これは就活を通して寡占市場における無意味な付加価値の羅列に対する理解(侮蔑)が深まった結果なのだろう。ようは本質的でない価値をさも本質的かのように騙ることに嫌悪感を示しているのであって、私は潔癖なのである。(ではこの本質的ではないのにさも本質的なことを言っているような文章はいったい何であるのか)

 

さて、さらっと就活について触れたわけだが、世の就活生が思うのと同様に就活に対してまったく気乗りしない。なんで手に職つけないといけないんだろう。というところで就活の意義について考えてみる。
資本主義社会では残念ながら生きていくために金が必要である。やりたいことが継続的な収入に繋がる可能性がそれなりにある場合は思う存分それをやればよいが、やりたいことがなくてただ刹那的に生きたかったりやりたいことが金にならなかったりする場合はヒモだろうとホームレスだろうと資本家に労働力を奉仕する代わりに賃金を得なければならない。あれ別に就職しなくても最低限労働すればよくね?*1
私のしたいことはと言えばマッドサイエンティストになることと音楽で人を殺すことなので現状就職を選択するつもりだが、私はそこまでして生き続けたいのだろうか? 好奇心と惰性だけでここまで生きてきたが、この先寿命まできちんと生き続ける自信があまりない。先述した潔癖さも相まって、このままだらっと生きていたら27才ぐらいで精神に何かしらの異常を来すんじゃないかとかつての私が試算していたものが、いよいよ現実味を帯び始めている。
(という文章を書いているときに坂本龍一逝去の報が入ってきたのは偶然だろうか?)
......といいつつなんだかんだずるずる生きてしまいそうな気もする。が、それはそれである種の死ではなかろうか。「考えるのをやめ、脳内快楽物質のままにテキトーに行動する」のが世の多くの人間だと弊研究室の講師と同意したのは記憶に新しいが、そんな生き方をするつもりは現状ない。
ということで、ずるずるテキトーに生きることなくこの先を生きていくと仮定すると、人生には好奇心と惰性以外の何かが必要だ。では一体何を? 

結婚と子供なのではないかという短絡的かつ世間一般的な結論に一周回ってたどり着いた。我ながらつまんね~結論とは思うが、私が主観的に必要としているわけではなく客観的に見て必要と考えられるものである事に注意したい。客観的に考えてこれらが必要であると一旦結論づけた上で私の主観を述べるとすれば、私は結婚はしたいかもしれないけど子供は要らない気がする。結婚というか、誰かの人生を縛って手元に置くことで安心を得たい。でもこれは結婚じゃなくても良い気がする。飼育(当然人間の)とか。子供は単純に嫌いで、子供が好きと宣う女性も大抵嫌いで、もう本当にどうしようもない。更に言うと、別に反出生主義者というわけでもないが、子供に自分のエゴを乗せられる人間には素直に感動する。動物全般にエゴを乗せることができない*2ので私はその辺をかなり諦めている。

先日指導教官(既婚女性)と飲む機会があったので、メンターとしてではなく人生の先輩として彼女を消費するのもたまには良かろうと思い、先述した生きていく目的について聞いてみたら「生きるのに目的がなくちゃいけないの?」と言われた。すでに日本酒を三合近く飲み意識が混濁していた私は何も反論することができず、その後しばらく「生きるのに目的がなくちゃいけないの?」という言葉がひたすらに頭の中で反響し続けていた。生きていくのに目的が必要なのか? わかんね~。本当はとてもシンプルなことのはずなのに、変に婉曲した考えばかりしているせいで何にも分からなくなっている気はする(し、多分そう)。ただ、彼女は友人に恵まれている=認知バイアスが強いせいで、彼女の想定する人間はかなり能力が高いということが後になって発覚した。そのため、この言葉の持つ力が今かなり弱まっている。彼女が想定するほど世の多くの人間は無目的かつ合理的に動けないのだ。

話が大分それてしまった。生きる目的があるにせよ無いにせよ、就職する意義があまりなく、よって就活のモチベーションがない。とはいえ今就活しないことが合理的だとは思わない。この相克の結果、今受けようと思っている企業を全て受け終わったとき内定が出ていたら就職、出ていなかったら博士課程に進学することとした。
だがそもそも就職しようと思ったのは、アカデミアのドロドロしたどうしようもないゴミみたいな部分を配属早々長期に渡って見せつけられたからだった。それを何の因果かまた進学する可能性を考えている自分が普通に愚かしい。だが進学した暁には私に加害した人間をアカデミアから追放し社会的に抹殺すると決めてある。これが現段階で考えられる最も具体的な生きる意味かもしれない。

 


 

思った以上につまらない文章になってしまった。というか最近つまらないことしか考えられていないことがよくわかる。もっと面白みのある事についてのみ考えていたい人生だ。しかしまあ自分がどれだけつまらない人間か自覚することでしかおもしろは生まれない気もするので、この文章がつまらないことはおもしろへの第ゼロ歩目としては及第であるということにしたい。

*1:ライン工に代表される単純労働や土方をしたくないので消極的に就職することとなる

*2:結婚のくだりと即座に矛盾していることに、今私はとても驚いている。大人はもう人格ができあがっていて更生の可能性がほとんど無いので相手がドクズだった場合は何の罪悪感もなく縛ることが可能だが、子供は更生の可能性が残されているためそれができないのかもしれない。もしそうだった場合、私が生きていても(積極的に望んでいるわけではないが、)幸福は一切望めないだろう。