死と超越

所見・偏見・エトセトラ

思考の自動記述に近いなにか

どうやらもう八月らしい。あと7ヶ月で大学生活が終わると思うとため息をつかざるを得ない。大学院進学はするつもりなのだけれど。

 

ここ最近の一番の変化と言えば、小山田圭吾が有名になってしまった((かなり事実が歪曲されてしまっているようだがせいで、Cornelius Tシャツを着て外に歩くことがめちゃくちゃ楽しくなったことである。これを着ることで障害者差別のレッテルを貼られ、背中から刃物で刺されることを密かに望んでいる節がある。

だが私の期待とは裏腹に、そのような行為をする人間はいないので、多くの人間にとって非常にどうでも良いことだったんだろうとも思う。あれ以来五輪関係者の過去を掘り返すのが一部で流行し、公人には清廉潔白さが求められていると言うことがよくわかったが、高度に情報化した現代にそれはキツかろうとも思う。俺もいつか過去の言動を掘り返されて炎上したりするんだろうか。今自分がめちゃくちゃ有名になる前提で話していますが、多分有名にはならないので杞憂だと思います。もしくは過去の言動を過度に掘り返すこと自体が倫理的にアウトになってるかもしれないな~。しかしそれは大衆の知的水準がある程度より上である前提の話かもしれない、大衆はカス。とするとキャンセルカルチャーは今後の反差別運動の主軸になっていくのかな。

 

しかし差別というのは本当になくなるのかしら。まあ中流階級以上では表面的にはなくなりそうな気がしなくもないけど。ただ差別と差別じゃないものの区別をどれだけの人が共有・判断できるか甚だ疑問である。

さらに(非常に個人的な話だが)理性では差別するつもりはなくても、電車内とかで見るやべー奴を感情的には差別してしまう場合がある。ようするに普通や常識といった観念が人の中にある限り、異端を発見し忌避してしまう気がするのだが、これは差別に当たるのだろうか?

とにかく全人類理性に基づいたコミュニケーションをするしかない。まあ人類には無理だと思いますが.......。滅ばないかな.......。

極端な話、全員が全く同じクローンになる(完全なる均質化)か、全く共通点のないカオスな状態(完全なる異質化)にならないかぎり差別は亡くならないのではないだろうか。そこで私が提案したいのが、前頭葉の切除だ。こういうくだらないことを考えてしまうからいけないのであって、高度な思考ができない、原始的な快・不快のみを判断できる状態にかえり、あとはマイクロチップを埋め込んでビルゲイツにでも操作して貰えば良いんじゃないでしょうか。つまりワクチンを打ちましょう!