死と超越

所見・偏見・エトセトラ

【掌編】人を刺した話

 何故日記にはその日に起きた実際の出来事を書いてしまうのだろう。実際の出来事を全く書かずに、虚偽の出来事だけを書いても日記たりうる場合はないのだろうか?

 

 

 

 

12月の寒空の下を歩いていると、四つん這いでうめき苦しむ男性がございました。こりゃあどうしたのかなと思い遠巻きに見ていると、その呻き声というのが「助けてくれ、助けてくれ」という言葉だとわかりました。ああなるほどこいつはキチガイだと合点致しましたのでその場を離れようとすると、どうしてか動けないのです。見ると彼の手が私の脚をがっしりと掴んでいるではありませんか。
「やめてください、やめてください」と私が申し上げますと、
「やめろだなんて水臭いことを言わないでください。私とあなたの仲じゃあありませんか」と仰るので、こりゃあ新手の寸借詐欺か何かかなと思い顔を見るとそれは私の顔でした。
「この顔を返して欲しければ私の言うことを聞いてください」
顔がないまま暮らすことはできないのは明白でありましたので、渋々彼(私?)の言う通りにすることにしました。

 

「ここに包丁がありますので、そこら辺にいる人を誰でもいいから一人刺し殺してきてください。なに安心してください、今のあなたには顔がありませんからね。何してもあなたのせいにはなりませんよ」
「いくらなんでも人を殺すだなんて。そんなこと、いくら頼まれてもやりません」
「『そんなこと』とあなた仰いましたね? 笑わせないでくださいよ、あなたいつも誰でもいいから殺してみたいと考えていたじゃありませんか。図星でしょう? 顔が教えてくれるんですよ」
「しかし私には良心というものもある」
「そんなものマヤカシですよ。良心なんてものは学校教育で後天的に刷り込まれた偽善的な道徳観念に過ぎないんです。誰も彼もみんな本当は悪いことを考えているんだから気にするだけ無駄というものです。さあ早く人を殺しに行って下さい。早くしないと私はこのまま帰ります」
顔が戻ってこないのは大変困りますので、私は仕方なく道行く中年女性に目をつけて背後から忍び寄りました。そして背中に包丁を突き立てたのです。うっという声が彼女の口から漏れました。
「まだだまだだ、そんなんじゃ人は死なないよ。肋骨に水平になるように刃を突き刺すんだ」と彼は言いました。
私は言われた通りにしました。それからはもう我を忘れ夢中で刺し続けたのです。気づいた時には女性の胸部はぐちゃぐちゃになってしまい既に事切れておりました。
「我ながら実に見事な犯行でした。突き刺せとは言いましたが、まさか何度も刺すとは......。顔に表れない深層心理がそうさせたのでしょうか。だとすると私は私が思う以上に悪人なのかもしれません」そう言うと彼は私に顔面を返して消えてしまいました。辺りはすっかり暗くなっていました。

 

帰宅してテレビをつけると、ニュース番組は先程の事件でもちきりでした。その後、週刊誌やワイドショーでセンセーショナルに取り上げられたりもしました。しかし彼が言ったとおり、いつまで経っても私が捕まることはなく、いつしか話題に上がることも無くなったのです。話題にこそ上がらなくなりはしましたが、犯行現場の献花を見かけるたびに、人を刺した感触を手のひらに感じるのです。これが私の中の良心なのでしょうか?
そして未だに私が疑問なのは、彼が一体何者で、もしあのとき人を刺していなかったら私はどうなっていたのか、ということです。そればかりがどうしても気がかりなのです。